舞台裏

西安の博物館で見た一枚の地図をきっかけに、長安城をまるごと今の西安に重ねてみました

POMODIARY チーム · · 6 分で読めます

西安へ旅行したとき、陝西(せんせい)歴史博物館でとても面白い地図を見かけました。

実はそれは二枚の地図を重ねたものでした。上の層には、盛唐期(唐は618〜907年)の長安城、つまりかつての西安である都の全体が描かれています。百を超える坊(塀で囲まれた住宅区画)、東市と西市、大明宮、興慶宮まで、くっきりと。下の層は今の西安の街路です。二枚を重ねると、いま自分が立っている場所が唐の時代にはどの坊だったのか、ひと目でわかるのです。

その瞬間、ちょっと胸を打たれました。中国の子どもたちは長安を詠んだ唐詩を暗唱します。杜牧の「長安回望繍成堆」(長安を振り返れば、山々は錦を積み重ねたよう)や、王維の「九天閶闔開宮殿」(天の九重の門が宮殿に開く)のような句です。それでも多くの人にとって「長安」は、ずっと抽象的な言葉のままです。この地図がそれを見慣れた街路の上に押し当てたとき、ようやく気づくのです。李白や杜甫が歩いたあの都は自分の足もとにあり、千三百年のあいだ場所を変えていないのだと。

これをウェブページにして、西安を訪れる人が誰でもスマートフォンで開けるようにしたら、どんなにいいだろう。そう思いました。

そして本当に作ってしまいました。

この記事はもともと中国語で書いたものを、日本語の読者向けに翻訳・調整しています。


どんな見た目か

完成したのは、「呼吸する」地図です。

画面にはスライダーが一本あり、つまみは唐の銅銭「開元通宝」になっています。これをドラッグすると、画面が「今の西安」と「大唐の長安」のあいだをゆっくりと移り変わります。現代の街路が少しずつ消えていき、朱砂(しゅさ)で縁取られた坊の塀、金泥で描かれた宮城、石青(岩群青)で描かれた曲江池が、じわじわと浮かび上がってきます。

重ね合わせモード:唐長安城の坊・市・宮城を今の西安の街路に重ねたところ

意図して「絹本着色」の絵のような雰囲気にしました。朱砂、金泥、石青に、手書き風の書体で縦書きにした坊名を添えて、机の上に広げた古地図のように見せています。

できることは次のとおりです。

  • 銅銭のスライダーをドラッグして、今と唐のあいだを自由に行き来する。
  • 地図上のどこかをタップすると、足もとの土地が唐の時代にどの坊に属していたかをポップアップで教えてくれます。有名な坊には故事も添えています。平康坊をタップすれば、ここが長安の「北里」で、科挙に合格したばかりの進士たちが好んで通った花街だったことがわかります。親仁坊をタップすれば、かつて名将・郭子儀の邸宅があり、「堂前に花を植え、堂後に歌を教う」と言われた場所だとわかります。
  • 16本の赤いピンをたどって、今でも実際に訪ねられる長安の名残へ。大雁塔、小雁塔、青龍寺、大明宮、含光門、大唐西市など、それぞれに「今 ↔ 唐」の比較カードがついています。

大雁塔を開いたところ:唐代は晋昌坊、大慈恩寺の境内


いちばん衝撃を受けた瞬間

この地図を作る過程で、鳥肌が立った細部が一つありました。

地図に破線で一周の線を重ねました。今の西安に残る明代の城壁、観光客が上に登ったり、城壁のふもとを散歩したりするあの一周です。

そして「唐」モードに切り替えます。

どうなったと思いますか。とても大きく、自転車を借りて上を一周するほどの西安の古い城壁が、唐の長安城全体のなかでは、北東の隅のほんの小さな一角を占めるにすぎなかったのです。

唐モード:破線は今の明代の城壁

唐の長安城は東西約9.7キロメートル、南北約8.6キロメートル。その面積は、今の明代の城壁に囲まれた「古城」の何倍もありました。私たちが歩いている「古城」は、実は盛唐の皇城と、その北側のわずかな部分にすぎません。本当の長安は、南へ、東へ、西へと、果てしなく広がっていたのです。

その瞬間になって、詩人たちが詠んだ「九天閶闔」や「万国衣冠拝冕旒」(万国の使節が冠を正して天子に拝する)が何を意味していたのか、ようやく本当に理解できました。


この地図は、きちんと考証しています

いちばんはっきりさせておきたいのは、唐の長安城を適当に描き込んだのではなく、一寸ずつ実際の緯度経度に「合わせて」あるということです。

  • 坊名の配置は、宋代の宋敏求による『長安志』巻七〜巻十の記述と一列ずつ照合しました。全体の構成は『唐六典』の一節「皇城之南、東西十坊、南北九坊。皇城之東西各十二坊、両市居四坊之地、凡一百一十坊」(皇城の南は東西に十坊、南北に九坊。皇城の東西にはそれぞれ十二坊。二つの市は四坊分の土地を占め、合わせて百十坊)に合致させています。
  • 位置合わせの基準点には、今も元の場所から動いていない唐代の遺構を三か所使いました。明徳門遺址(朱雀大街の中軸線を決める)、含光門遺址(皇城の南壁を決める)、丹鳳門遺址(北壁の位置を決める)です。

何よりも安心できたのは、位置合わせが終わったあとの「自己検証」でした。わざと合わせにいったわけではないのに、

  • 大雁塔は、ちょうど晋昌坊に収まりました(唐代の大慈恩寺があった場所で、玄奘が経典を翻訳し、塔を建てた地です)。
  • 小雁塔は、ちょうど安仁坊の北西の角に収まりました(史書に記された薦福寺の塔院の位置とぴったり一致します)。
  • 大興善寺は、ちょうど靖善坊の真ん中に位置しました(隋唐の皇室の寺で、寺地は隋から今日まで千四百年動いていません)。
  • 青龍寺は、ちょうど新昌坊にありました(日本の空海がここで密教を学び、帰国して真言宗を開きました)。
  • 大唐西市博物館は、ちょうど唐代の西市の跡地の上に重なりました。

千年の都の骨格が、一枚の地図の上で互いを裏づけ合っているのです。

もちろん、これはあくまで概念的な復元図です。坊の境界や街路はおおよそのもので、水系の流れも雰囲気で描いているので、考古学的な根拠としては使えません。サイトには「輿図考」という専用ページを設けて、すべての典拠と、割り引いて見るべき点を正直に書いてあります。


西安を訪れるあなたへ

これを作ったのに商業的な目的はまったくありません。ただ、こう思ったのです。

鐘楼の交差点に立っているとき、足もとが唐の時代には百官が朝廷へ向かった皇城だったと知ることができたら。 大雁塔の下で列に並んでいるとき、ここが千三百年前には晋昌坊と呼ばれ、玄奘がここで経典を訳していたと知ることができたら。 回民街(イスラム教徒の回族が多く暮らす通り)を歩いて泡饃(パオモー、ちぎったパンを羊肉のスープに浸した料理)を食べているとき、このにぎわいが、唐の西市で胡商(西域の商人)たちの酒場に漂っていた香りと一本の線でつながっていると知ることができたら――

そのときの西安旅行は、ただの「スポット巡り」ではなく、この都と、あの盛世と、本当に顔を合わせる旅になるはずです。

長安はずっとここにありました。名前が西安に変わっただけなのです。


この地図はウェブサイトにしました。changan.pomodiary.com です。スマートフォンでもパソコンでも開けて、すぐに使え、アプリのダウンロードも要りません。次に西安へ行くときはぜひ持っていって、歩きながら足もとの道を唐の時代へとたどってみてください。

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